智目行足を以て清涼池に到る

これは龍樹菩薩が書いた『智度論』に出てくる言葉です。

正しい智慧を身につけて修すれば悟りの境地にたどり着くという意味です。

あるいは修することによって悟りの智慧が沸くと考えていいかも知れません。

いずれにせよ、宗教を学ぶというより、宗教を修することを学ばないことには、

得ることはむつかしいでしょう。

般若心経の中で、観世音菩薩が深波羅蜜を行じた時、五蘊は皆空と照見して、一切の苦厄を度した書かれています。深波羅蜜を行じて悟りの智慧がおこり真実の世界が観えたのです。

この波羅蜜とは六つの波羅蜜の行を言います。

悟りへ到る六つの聖なる修行のことです。六波羅蜜と一般に言われています。京都に

六波羅蜜寺というお寺がありますね。六波羅蜜については後日触れたいと思います。

智慧には三つの智慧があります。

一つは、聞慧です。

  聞きかじりで得る智慧です

二つには、思慧です。

  聞いたものを、一度受け止めて自分で深く考え直して思慮して得た智慧です。

三つには修慧です。

  行ずる事、修すること、実践することよって得られる直感みたいな智慧です。

ここでいうところの智慧というのは、まさしく三番目の修慧に当たります。

釈尊あるいは、大日如来の自内証は、誰にもわかりません。それは言葉に言い表すことができないからです。たとえば、お菓子を食べて、「このお菓子は美味しいです」と言ってもどんな味であるかは食べた人しかわかりません。その人の言葉を通じてある程度は理解できますが、微妙なものまでは表現できません。その人にしかわからない領域があります。美味しさは自分が食べて初めて感じることができることですが、その感じ方の度合いは全く同じではないでしょう。

悟りのの世界も同じように人から教わってわかるものではなく、自分が修することによって実践することによって得られるものです。

仏教は多くの道を求める実践者によって広まってきました。

今仏教が衰退しているのは、求道に燃える人がい少なくなっているからではないでしょうか。

宗教することを学び、宗教する人になることが肝心だと思います。