沖縄の宗教事情

沖縄の人々には宗教について皆目理解していない人が多いと感じられます。

檀家制度もないので、お寺との関係も希薄です。それ故に宗教に対する知識がないとも言えます。神社とお寺の違いや、ましてや宗派のこともわかりません。

仏教の話をすると自分たちは「先祖崇拝」なので宗教は必用ないと平然と言う人も多く見られます。

亡き人を思わない民族がどこにあるというのでしょうか。けして沖縄独自の風習ではないと思います。

宗教という言葉をきらう沖縄の人々は、実は仏教の行事をしています。それには中国の影響の強い風習が多く見られます。薩摩に支配された時代に僧侶の活動を禁じられ、お寺と民衆との触れ合いがなくなりました。この間に仏教の教えが曲げられ、儒教、道教がチャンプルー(ごちゃ混ぜ状態)になって本来の仏教の意味が薄らぎ、仏教行事をおこなっているとは認識していないのです。

さて、沖縄は先の大戦では多くの犠牲者を出しました。戦後長くアメリカに統治されました。復帰しても今尚戦争の傷跡は癒えていません。沖縄の人たちは、日本政府もアメリカも信じられなくなっています。頼りになるのは、沖縄の文化だけです。沖縄の文化に精神的な救いを求め、文化の振興を育んできました。以前は劣等感をもっていた民衆が、今や自信にあふれ堂々と沖縄をアピールしています。芸能界、スポーツの分野では著しい活躍が見なられます。

宗教に関して言えば、琉球王国の古式行事や民間信仰の復古調が目立ちます。書店にもユタの本や、沖縄の祭事の本が多く出版されています。それに反して、伝統仏教の本は少なく、図書館に行ってもあまりありません。しかし、葬儀はほとんどお坊さんに依頼するようになっています。但し、檀家制度はありませんので、葬儀屋さんに宗派に関係なく手配されたお坊さんが葬儀をすることになります。葬儀がお寺でやることが多くなったとはいえ、お坊さんのいうことより、民間信仰のユタの言動や、地域の長老の言動に左右されるケースも少なくありません。

一番困るのは、位牌の書き方です。まず戒名の意味がわかっていないので、本位牌をつくるときに、俗名を表に、戒名を裏に書いてしまうことがあります。どんなに説明しても、ユタや、地域の長老がいえばそれに従ってしまいます。沖縄は横のつながりが強いので、嫌われることを恐れるのでしょう。お寺で葬儀をしなかって時代とは違って、今は100%お坊さんに葬儀をしてもらっている時代ですから、戒名をつける習慣がなかったからとはいえ、勝手に戒名を裏に書いていいというもではありません。無知の恐ろしさというか、釈迦に説法というものです。葬儀屋さんにも、仏具屋さんにも、また一部の仏教者にもそれを是とするところもあるので、困ったものです。間違ったことを習慣ずけるとそれこそでおかしな仏教が根付いてしまいかねません。

時間はかかるかも知れませんが、仏教者は正しい教えを施す努力しなければならないと思います。昔からの文化は大切ですが、時代に合わない因習は改善しなければならないと思います。仏教者も民衆も仏教について、お互い学びあい理解を深め、迷信や、時代にそぐわない因習を改め、良き文化をつくっていく必用があり、萬民の幸せを願って尽力しなければならないのではないでしょうか。