教科書問題

 沖縄県民は先の大戦で4人に一人は戦死した悲惨な戦争体験をしている。

 お寺で行う戦没者の供養をみても、一家族で十名以上亡くしている家族もいる。今でも遺骨の収集が続いており、まちの工事現場では、爆弾処理が絶えない。戦争の爪あとは今もつづいている。
戦後、国土が荒廃し生きる力を失っていた沖縄の庶民に「舞天」という芸名で庶民に笑顔を取戻させて生きる勇気与えるために活躍したお医者さんがいた。ズタズタにされた県民は自分たちの文化を復興させることで、生きる力を養い苦渋を強いられながらも耐えて耐えて生きてきた。
沖縄が日本に返還されて、著しくインフラの整備が進み便利にはなったものの、米軍基地は沖縄に集中し固定され、県内での基地のたらい回しに翻弄されて、基地負担が重くのしかかり、一向に生活は改善されない状態が続いている。

 アメリカも日本政府も沖縄を占領している状態であり、国土防衛の前線にしていると言っても過言ではない。授業中の学校の中にでも横柄に米軍の車両が平気で入ってくる現状を内地の人は知っているだろうか。沖縄に住んでみないとわからないことが山ほどある。
産業基盤のない沖縄においては、経済面で考えると、基地収入は財源として重要であろう。しかし反面、住宅、交通、産業、観光、環境、安全から考えるとマイナスである。
基地という道具でアメと鞭で交付金をちらつかせながら牛耳ようとする政府の態度に嫌気のさしているところに、戦争の真実を隠そうとする愚行を知った県民は反対の狼煙を上げた。戦争の悲惨さを体験した県民は戦争になると、敵も味方もなくなって地獄そのものになることを実体験している。沖縄は平和学習を通じて、戦争の悲惨さを語り継ぐ努力をしている。

 私も高校生たちと慰霊碑の前で祈り、戦争の悲惨さを毎年訴えている。戦争に対しての思いと、戦後の基地負担で苦しんでいる思いが今回の教科書問題の抗議集会となったと思う。確かに動員されたし、参加人数も正確でないかも知れない。政治的に利用されたところもあるだろう。そんな側面でこの集会を批判してはならないと思う。県民の心情は二度と戦争をしてはならない。戦争になると、善悪の通用するところではなくなり、地獄になるということを訴えたいだけだと思う。軍隊が命令した、命令しなかったとかの争いには興味がない。あったかも知れないし、なかったかも知れない。あったと記述すれば、喜ぶ人もあるだろうし、喜ばない人もあるだろう。戦争は正義がない地獄の世界のできごとだから、特定して裁くことはできない。

 沖縄の人は戦争の真っ只中で追い詰められ銃弾や爆撃にあい死んだ者、自害したもの、集団で自決した者、殉職した者のあったことを見てきている。その真実を見逃すことや、歪曲化することや、否定することはできない。過去のつらい経験を語り継ぐこと、本や、テープらに記録して残すこと、歌や、演劇で現すこと、戦争の爪あとを保存して残すこと等いろいろな方法で戦争の悲惨さを伝える工夫が必要だろう。国権で政治的なものは変化する。それをあてにしてはならない。いずれ教科書からは軍命で集団自決したという記述は削除されるだろう。教科書に記述されなくても、県民は真実を知っている。それを国を頼らず語り継ごう。政治やイデオロギーに利用されず、真実を伝えよう。

 沖縄には許す良心、迎え入れる包容力、融合し新しい文化を作り出すエネルギー、友情を育む力をもっている。沖縄こそ、平和の発信地だ。世界から戦争がなくなることを願いたい。